豊臣石垣とは?大阪城の地下7メートルに眠る秀吉の石垣と、徳川が埋めた理由

大阪城の地上の天守と地下に眠る古い石垣を描いたサムネイル「徳川はなぜ秀吉の城を埋めた?」 城

今の大阪城で見える石垣は、豊臣秀吉が築いたものではありません。秀吉の大坂城の石垣は、徳川幕府の再築で約6メートルの盛り土の下に埋められ、今も地下に眠っています。この記事では、昭和34年に地下約7メートルで見つかった「謎の石垣」の正体と、徳川が豊臣の城を埋めた理由についての説を、順にたどります。

THE HISTORY JAPAN の動画「地下7メートルの『謎の石垣』」。この記事は、動画を作るときに調べた内容をもとにしています。

豊臣石垣館の基本情報

名称大阪城 豊臣石垣館
見られるもの豊臣秀吉の大坂城の本丸「詰ノ丸」を守っていた石垣(1984年発見)
所在地大阪市中央区大阪城1-1(大阪城天守閣)
開館時間9:00〜18:00(入館は17:30まで)
休館日年末年始(12月28日〜1月1日)
入館料大阪城天守閣の入館料が必要(料金は公式サイトで確認してください)
最寄り駅Osaka Metro「谷町四丁目駅」「天満橋駅」「森ノ宮駅」、JR「大阪城公園駅」「森ノ宮駅」など
公式サイト大阪城天守閣「大阪城 豊臣石垣館」
2026年11月7日に公式サイトで確認した情報です。最新の情報は公式サイトで確認してください。

地下7メートルで見つかった「謎の石垣」

深く掘られた穴の底に古い石垣が現れ、調査員が見下ろしている発掘調査の場面のイラスト
昭和の発掘調査のイメージ(生成AIによるイラスト)

昭和34年(1959年)、大阪市・大阪市教育委員会・大阪讀賣新聞社による「大坂城総合学術調査」が行われました。12月、天守閣の近くを掘り進めたところ、地表から約7.3メートルの深さで、自然の石をほとんど加工せずに積んだ石垣が現れます。

新聞は「秀吉の城発見か」と報じました。しかし調査団は、豊臣時代のものと決めることに慎重でした。この石垣は、だれが、いつ積んだものか分からない「謎の石垣」として話題になります。大坂城の前にこの場所にあった、大坂本願寺の遺構ではないかという見方もありました。

秀吉が築いた最初の大坂城

高い石垣と広い堀に囲まれ、黒い壁の天守がそびえる豊臣時代の大坂城を高い所から見下ろしたイラスト
豊臣時代の大坂城のイメージ(生成AIによるイラスト。建物の姿には想像を含みます)

大坂城のある場所には、もともと大坂本願寺(石山本願寺)がありました。天正11年(1583年)、羽柴(豊臣)秀吉はその跡地で大坂城の築城を始めます。

豊臣の大坂城の本丸は、「詰ノ丸」「中ノ段」「下ノ段」という三つの段に分かれていました。いちばん上の詰ノ丸は、秀吉と妻のおね、淀殿と息子の秀頼が暮らした場所で、本丸のなかでも最も大切な中心部です。

慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなり、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、大坂城は落城します。

謎の石垣の正体を明かした三つの手がかり

手がかり1 石の積み方と大名の刻印

地下の石垣は、自然の石をほとんど加工しない「野面積み」でした。一方、地上の石垣は、割った石を使って積まれています。さらに1959年の調査では、地上の石垣に、江戸時代に工事を受け持った大名の刻印が数多く見つかりました。今見えている石垣は、徳川の時代に築かれたものだと分かったのです。

大阪城の桜門のそばにある、表面を平らにそろえた巨大な石を使った石垣
今の大阪城の石垣(桜門の巨石)。写真: Yanajin33 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

手がかり2 石の表面に残る火の跡

火に焼けて赤黒く変色し、ひび割れた野面積みの石垣のアップのイラスト
火に焼けた石垣のイメージ(生成AIによるイラスト)

発掘日誌には、地下の石垣の表面がひどく焼け、はがれかけた石もあったと記されています。豊臣の石垣に残るこの跡は、大坂夏の陣の猛火を受けたものと考えられています。

手がかり3 中井家に伝わった本丸の絵図

古い和紙に描かれた城の平面図を机の上に広げて見つめる手元のイラスト
古い絵図を調べるイメージ(生成AIによるイラスト。実際の絵図ではありません)

翌1960年、京都の大工頭を務めた中井家から、豊臣時代の大坂城の本丸を描いた図が見つかりました。詳しく検討した結果、地下の石垣は豊臣の本丸「中ノ段」の帯曲輪の石垣と考えられるようになります。この絵図は、2011年に「豊臣時代大坂城指図」として国の重要文化財に指定されました。

そして昭和59年(1984年)、配水池の工事に伴う調査で、高さ約6メートルの石垣が見つかります。絵図と照らし合わせると、秀吉たちが暮らした詰ノ丸の石垣でした。これが、今の豊臣石垣館で公開されている石垣です。

なぜ徳川は豊臣の城を埋めたのか

元和6年(1620年)、徳川幕府は大坂城の再築を始めました。このとき、豊臣の本丸の中ノ段の高さで約6メートルの盛り土をし、豊臣の石垣を埋めてしまいます。詰ノ丸の高さにあわせて、本丸全体をかさ上げしたのです。なぜ、わざわざ埋めたのでしょうか。理由をはっきり記した記録は確認されておらず、いくつかの説があります。

説1 豊臣の痕跡を消し、徳川の力を示すため

地中に沈む黒い古い天守と石垣の上に、白い新しい天守と高い石垣がそびえる様子を描いた寓意的なイラスト
地中に沈む豊臣の城と、地上の徳川の城のイメージ(生成AIによるイラスト)

よく語られてきたのは、豊臣の城の痕跡を消し、天下が徳川のものになったことを示すためだった、という説です。天下人の城を地中に封じることで、新しい時代を示したというわけです。

説2 より高い石垣を築くため

陣幕の中で大きな城の図面を広げて相談する江戸時代初期の武将たちのイラスト
城の設計を話し合うイメージ(生成AIによるイラスト)

もう一つは、より高い石垣を築くためだったという説です。再築の設計を任された藤堂高虎は、堀の幅と石垣の高さを豊臣の城の倍にするよう命じられた、という話も伝わっています(だれが言い出したかは、資料によって書き方が違います)。高い石垣を築くには、土台ごと高くする必要があったというわけです。実際に、徳川の本丸東側の石垣は高さ約32メートルあります。

堀の水面から高くそびえる大阪城の石垣
徳川の時代に築かれた大阪城の高石垣。写真: そらみみ / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

どちらか一つが正しいのか、両方の理由があったのか、答えは一つに決まっていません。

豊臣の石垣と徳川の石垣の見分け方

豊臣の石垣徳川の石垣
時代天正11年(1583年)〜元和6年(1620年)〜
石自然の石をほとんど加工しない(野面積み)割った石を使う
見られる場所地下(豊臣石垣館)今、地上に見えている石垣
特徴大坂夏の陣の火の跡工事を受け持った大名の刻印、本丸東側は高さ約32メートル

豊臣石垣館で見られるもの

大阪城 豊臣石垣館の建物の外観
大阪城 豊臣石垣館。写真: 掬茶 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

令和7年(2025年)4月に開館した「大阪城 豊臣石垣館」では、1984年に見つかった詰ノ丸の石垣を、地中に降りて見学できます。公式サイトでは、見どころとして次の点が紹介されています。

  • 野面積み:自然の石をほとんど加工せずに積んだ、豊臣時代の積み方
  • 戦火の痕跡:大坂夏の陣の火を受けた跡
  • 裏込石:石垣の裏に詰められた小さな石
  • 転用石:古い寺院の礎石などを石垣に使ったもの
  • 算木積み:石垣の角を丈夫にする積み方

館内にお手洗いはありません。また、石垣の状態によっては、予告なく公開が中止されることがあります。

よくある質問

今の大阪城の石垣は、秀吉が築いたものですか?

いいえ。今、地上に見えている石垣は、元和6年(1620年)から始まった徳川幕府の再築で築かれたものです。秀吉の時代の石垣は、盛り土の下に埋められています。

豊臣の石垣はどこで見られますか?

2025年に開館した「大阪城 豊臣石垣館」で、地下に眠る詰ノ丸の石垣を見学できます。入館には、大阪城天守閣の入館料が必要です。

今の天守閣はいつ建てられたものですか?

昭和6年(1931年)に、市民の寄付によって復興されたものです。徳川の天守が寛文5年(1665年)に落雷で焼けてから、266年ぶりの天守でした。平成9年(1997年)に国の登録有形文化財、令和7年(2025年)に大阪市指定有形文化財になっています。

大阪城の歴史と見どころ

豊臣と徳川の大坂城の歴史や、天守閣・重要文化財の櫈など現地の見どころは、大阪城の総合ページにまとめています。

大坂城と豊臣家を描いたドラマ・映画

2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、秀吉の弟・豊臣秀長が主人公です。ほかにも、大坂の陣を描いた大河ドラマ『真田丸』、淀殿(茶々)を主人公にした映画『茶々 天涯の貴妃』、大坂城の落城を描いた映画『千姫と秀頼』など、大坂城と豊臣家にまつわる作品はたくさんあります。この記事で紹介した歴史を知ってから見ると、物語の背景がよく分かります。

大坂城をもっと知るための本

豊臣の大坂城や石垣の発掘、大坂の陣を深く知りたい人のために、本の一覧をつくりました。絵本・まんがの入門から、研究者による新書・選書まで、テーマごとに紹介しています。

出典・参考文献

(いずれも2026年11月7日に閲覧)

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